*** 「谷山浩子」半生記 ***

 ここでは、谷山浩子さんの半生記をお教えしましょう。「悪魔祓いの浩子さん」よりもちょっと詳しく、でもかいつまんで。

 ご生誕

 出生地は東京都杉並区高円寺。ただし、生まれてすぐに横浜市中区に移り、2歳からは千葉県八日市場市、4歳からは再び横浜で育つ。
 お父さまはジャズトランペッター、お母さまは音楽大学で声楽をされていたという音楽一家。浩子さんは一人娘。
 小さいころからあだ名は「のこ」。「ひろこ」がうまく言えず、「チノコ」になり、「のこ」になったとのこと。

 少女時代

 出身学校は、聖光学園附属さゆり幼稚園→横浜市立立野小学校→お茶の水女子大付属中学校お茶の水女子大付属高等学校の順。なお、体育実技が有るので大学進学は断念。
 ピアノを習い始めたのは5歳の時。自発的に始めた。横浜にあるフェリス女学院付属音楽教室に小5まで通っていた。11歳の時に受験勉強のために習うのをやめる。
 歌を作り始めたのは小1の時。当時はマンガを描くのと歌を作るのが趣味で、「将来はマンガ家になりたい」などと言っていたが早々に断念、作詞作曲家(歌手ではない)を目指す。
 小学校4年生頃に「横浜少年少女合唱団」に入団。横浜市の山下公園にある氷川丸の中の一室が練習場だった。
 小5から中1にかけては(グループサウンズの)ザ・タイガース(特にピー)と中村晃子のファン。

 初恋から芸能界でビューまで

 初恋は中1の時。その後の劇的再会を経て初恋のお相手と結婚。
 中学生〜高校生時代は演劇部に所属。また、学校(お茶の水女子大付属中)のすぐ近く(走って30秒)にあったキングレコードの中村晃子担当ディレクターのところに通って自作曲を聴いてもらっていた。
 その結果、14歳の時「ベイビーブラザース」(後のフィンガー5)のシングルレコードのB面に自作曲「僕たちの秘密」が採用。これが芸能界での初仕事。
 15歳の時同じディレクターの勧めで自作曲を自分で歌ったLP「静かでいいな 〜谷山浩子15の世界〜」をキングレコードから発売。3000枚売れたが、すぐ廃盤。(1回目のデビュー)
 16歳から1年半ほどNHK「ステージ101」に「ヤング101」のメンバーとしてレギュラー出演。最初の登場は1973年2月3日「新メンバー谷山浩子「世界」を歌う」のようです。太田裕美さんと同期。番組が終了したため出演も終了。
 17歳の時に学研「ミュージックエコー」の作曲コンクールで入選。

 ポプコン入選とシンガーソングライターとしての道

 17歳の時(5月)ヤマハポピュラーソングコンテスト(第7回、1974年)に応募し、「お早うございますの帽子屋さん」で本選会入賞。キャニオンレコード(現 ポニーキャニオン)から同曲シングルを発売。(2回目のデビュー)
 所属レコード会社はこれ以後一貫してキャニオンレコード。(社名変更により現在はポニーキャニオン)レーベルはAARD-VARK。
 高校卒業後、みなみらんぼうさんのバックミュージシャンとしてピアノを弾く。後にはソロで前座を努める。
 20歳の時に(財)ヤマハ音楽振興会と専属契約を結び、歌手として本格的に活動開始。キャニオンレコードからシングル「河のほとりに」とLP「ねこの森には帰れない」発売。(3回目のデビュー)
 所属事務所は3回目のデビュー以後、ほぼ一貫して(財)ヤマハ音楽振興会。(1997年4月1日より1998年7月までは(株)常磐。) 公式ファンクラブは現在のヤマハアーティストハーツ(yah)

 マルチタレントとしての谷山浩子

 22歳の時に初めてラジオのDJを経験。また、初めての本「谷山浩子童話館」を出版。
 25歳の時から「オールナイトニッポン」木曜第二部を担当し、大人気を博する。
 26歳の時に初めてのエッセイ「悪魔祓いの浩子さん」を出版。
 28歳の時初めてTVドラマの主題歌を担当する。曲はDenis De Youngのカバーで「DESERT MOON」。
 31歳の時に最初の「101人コンサート」を東京の東村山で開催する。これまでに300回以上を開催。
 32歳の時に最初の青山円形劇場連続コンサートを開催。現在も形式を変えて実施中。  また、初めてのコバルト文庫作品「コイビトの耳はネコのみみ!」を出版。以後同文庫から5作品を発表。
 38歳の時に初恋の人と再会。1年後に婚約。1996年1月に入籍。

 これからの谷山浩子

 デビュー40周年行事も終わりましたが、浩子さんはこれからも今まで通り、そしてさらに新しく活動の幅を拡げていくのです。
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